各地の声—北海道詩人協会「次世代へ詩を繋ぐこととは」
各地の声北海道詩人協会
次世代へ詩を繋ぐこととは
会長 坂本孝一
詩を書くのも芸のうちかも知れない。薄暗い北の空を見ながらふっと息を吸い詩を作るなどと言うことを、特定の人にしか話せないままに今にある。
普通に詩を話題にして四囲の友人知人との間に交流が成り立たない。また話を続ける雰囲気を残念ながら醸し出すことの難しさ。いまだ「詩は何か」問われてどぎまぎしてしまうのだ。
社会的変革は世の要求によって誕生する。過去にもさまざまあったが、近くは、馬車が自動車に様変わりしたように、暮らしの様式が変わる。より良いものを求めそれを表現してゆく社会構造においては然るべきものとして甘んじるしかない。然るに通信機器による社会変容もまた今日における生活への利器として進化は文明の証としてもいいのではと思う。
詩も取り込まれる通信機器の実際は知らない。その詩の交歓を知らないが、もう、紙だけの時代でないことはわかる。個人としては乗れない一人だということだけが、負の要素として深まる。
詩は誰のものか。と反芻すれば、間違いなく若者の手に落ちるだろう。十代に書き出した詩らしきものは、長い挫折をふくめて八十を間近にして混迷の最中にある。
担い手として登場を待たれる次代の若手への詩の引き継がれ方を考える時の場はどうあるべきなのか、詩の所有は誠に個人的であることをふまえその上で場とは何かと言うことになる。
来たれと言っても群がることに意味を見いだせないのか、そもそも集団的作業に参加することが慣れていないのか、社会構造からして協同することが不要なのか。どうも巷から連絡手法のひとつを奪われた感じがする。個人情報の保護の重視と固定電話の減少などの原因になっている様にも思う。そんな風に人間関係を薄くする仕組の壁が出来てしまっていることに驚きを感じるしだいだがさて、詩を次代の世代に伝える取り組みのことになると誠にこころもとない。そもそも詩を若い人に伝える必要があるのか。詩は相変わらず求めるものでなかったか。ここに言われることは、教室のように教育のにおいがする。そんな風に次代への伝え方は正当があるのか疑問が残る。詩は集団的発生はしていないはずのもので、ここに異なる発生源を有し個の気づきに起因しているものだろうからだ。
詩は手に取り、根掘り葉掘りするものでないことは先刻承知のことではあろう。前段に芸のうちと記したのは詩作において、師事しているのであれば詩の心得を多とした文言になるだろうし、詩作の習いは見よう見まねで習得し自分のものとするだろう。しかも、そこにはそうしたいとの熱望がある筈だ。そうあってほしいと思う。それには多分に覚悟がいるように思われる。だから切っ掛けはどうあれ芸事を究めるには希望や忍耐も必要になる。
詩の場の提供は出来る。先だって、北海道詩人協会の主催する「北の詩祭」に道内に在住する著名な詩人の講演会を持った。時下のコロナ禍のなか会員のほか、若い人の参加もあった。肉声を聴き感激したとの声もあり、誰もが参加できる催しの要ることを知った。昨今入会が少ない状況にあるが各々自身を鼓舞する環境はつくれそうだ。難しいことだが、誰彼のこころに止るような企画を持つことも大事であると考える。ただ唯々するものの気軽に状況は変わらない。如何様にも操作できる通信機器での交歓は気軽にできるし感想も即応できよう。実に今様であるが静かに深厚するには不向きではないだろうか。詩は時に沈黙のなか想像の色彩を広げる。そこで詩は詩を語るはずである。何を聞くかは個々に違う。
詩の扉をひらくのは自動ではなく、常に個のなすべきことである。肝に銘じたい。情報の乏しい現在地からの肉声であり独りよがりかも知れない。詩を乞う手にしか詩は渡っていかない。そこには願望しかない。